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校歌物語

校歌物語

校歌は1919(大正8年)年秋、母校創立20周年記念を目標に制定された。

以来90年脈々と歌い伝えられている。付属校の拓殖大学第一高等学校校歌も同じである。

校歌の精神は「百年先を読んだもの」と言われ、宮原民平教授(兼東京帝国大学文学部講師)の詩作はさすがと思わせる。

作曲の永井建子は現広島市佐伯区五日市町の出身。幼にして漢学の素養、絵画、音楽を身に付け、陸軍音楽隊では「雪の進軍」と「元寇」を作詞作曲したことでも有名に。校歌を作曲した時は予備校で、東京音楽学校(現東京芸術大学)講師と帝国劇場洋楽部長・管弦楽団指揮者だった。永井に直接校歌を教わった学生は18期石原秋朗から20期まで。永井は1940年(昭和15年)3月、音楽活動をしていた広島で74年の生涯を閉じた。市内の石内拓殖大学校歌と彫った記念石も並んでいる。(永井建子生誕碑プロムナード)。

校歌について

本学の校歌が出来たのは大正8年であるが、実はもっと久しい以前から本学は校歌の制定を熱望していたので、学校当局と麗澤会では、かつて2回ほど学生に向かって歌詞の募集を試みたこともあった。しかし適当な作が得られなかったので、むしろ専門家に頼んだ方がよかろうと言うことで、当時文壇の某大家に校歌の制作を依頼したのであるが、出来た歌詞をみるとさすがに、詩人の筆になっただけに語句などは洗練されていたが、もっとも重点を置くべき「拓大精神」が期待していた程に高揚されていないのが難点で、ついにこれも採用に至らなかった。そして最期に私は永井先生(当時幹事)の勧めで大胆にも歌詞一編三節を作ったのであるが、校歌は主として学生の唱うものであるから、まず学生の意見を問おうと思って、数人の代表者に草稿を見せたところが、お世辞でもないらしく、すこぶる賛成の意を表したのでさらに学長・専務理事の閲覧を経て、ここに校歌として歌詞は確定したのである。

次に作曲は陸軍軍楽隊の元老で数多くの名曲を作り、我が音楽界の重鎮として仰がる永井建子楽長を煩わすことになった。永井楽長はこの委嘱に感謝し、大いに心力を練ってこの楽譜を作り上げたもので、校歌の楽譜としては非凡の絶品である。当時楽長は「この楽譜は相当自信のあるものですが、一般の音楽的教養の程度より20年位進み過ぎています。」と言われたが、それから20数年を経た今日でも、この校歌が唱いにくい人は少なくないところをみると一般の音楽的教養は殆ど向上していないらしい。唱うべき歌は、歌詞よりむしろ楽譜の方が大切だと私は思っている。歌を活かすも殺すも楽譜による。だが、楽譜は楽譜の通りに唱わなければ真っすぐな銃で盲目的に撃つより愚かなことである。本学の校歌は一般の唱歌、軍歌の譜に用いられることの極めて少ない3/4拍子である。それがところどころの2/4拍子のごとく間違って唱われ、歌の勢いがだれてしまう。「20年位進み過ぎ」とは多分この拍子に付いて言われたことと思う。この点もっとも注意を要する。その他すべて楽譜に従って唱うべきは勿論であるが、学生は何も声楽隊のように美声を立て、巧緻に唱う必要はない。正しく、力強く唱うべきが望ましい。「正しく」とは楽譜を誤らぬことであり、「力強く」とは天地を遥憾するような気魄を含むことである。

教授 宮原民平