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「紅会」紹介

会長挨拶

昭和16年、戦前の全学応援団を解散して後、昭和23年に新しく応援団推進部を作り、その推進部が母体となり新生拓殖大学応援団(当時は紅陵大学)が冨岡豪一先輩を初代団長に迎えて発足致しました。その後30年間に亘り全日本学生応援団連盟に拓大応援団ここにありと言わしめ、その間数多くの諸先輩、そして後輩等を輩出して参りました。

現在、拓殖大学には応援団はございませんが、拓大応援団OBを中心としたOB会組織である「拓殖大学応援団紅会」として、拓大応援団精神・演舞等の伝統を守り活動を続けております。
紅会は、拓大応援団精神を理解し、共感する拓大応援団OB並びに拓大OBを会員とし構成されています。
紅会会員は、会員相互の親睦を図り、母校の健全なる発展に寄与すること、本学在学生に対する支援並びに社会に奉仕すること、更に、拓殖大学応援団の正当な伝統を後世に継承することを目的にこれからも活動して参ります。
尚、数多くの拓大OB諸兄を応援・激励する為の拓大応援団演舞・リーダー公開のご依頼にはできるだけお応え致します。
末筆ながら拓大OBの皆様の益々のご健勝・ご活躍を心よりお祈り申し上げます。


 紅会会長68期 中島 武

「紅会」の目的

 本会は以下の目的を持って運営する。

  1. 本学及び本会会員相互との連携を密にし、応援団OBなどの神髄を深く理解共鳴したものが親睦を図りながら母校の正当な伝統文化を後世に継承する事を目的とする
  2. 本会および本会会員は母校拓殖大学の健全なる発展に寄与し、本学在学生に帯する支援を旨とし社会に対し奉仕する事を目的とする。

(拓殖大学応援団紅会会則第2条より引用) 

紅会組織図

沿革

[目次]
1.戦前の応援団(30期・40期前半・専門部~昭和16年まで)
  ・エピソード1 専門部16期 大貫健一郎 先輩
2.創生期(40・50期代) 
  ・エピソード2 学部46期 冨岡豪一 先輩
  ・エピソード3 学部49期 宍戸政栄 先輩
  ・エピソード4 学部55期 降矢 孜 先輩
  ・エピソード5 学部57期 米林 弘 先輩
3.躍動の時代(60期代)
  ・エピソード7  学部59期 品竹英夫 先輩
  ・エピソード8  学部61期 水野哲紀 先輩
  ・エピソード9  学部62期  渡邉龍治 先輩
  ・エピソード10 学部64期 小池信一郎 先輩

≪外伝≫

 

 1.戦前の応援団(30期・40期前半・専門部~昭和16年まで)

戦前の拓大応援団は大正4年(1915年)相撲部創設の頃より関東学生相撲大会などの応援をする為に全学応援団として活動していました。昭和16年解団になるまでの応援団は入部ではなく全校生こぞって応援をし、新入生はその中核をなすのが慣わしでした。

<エピソード1専門部16期の大貫健一郎先輩>

新入生は、入学式のその日に招魂社、脇光三碑にお参りし碑の由来の説明を受け、上級生の応援団リーダーから「この林を摩天林、この湖を麗沢湖と称し、幾多の先輩が復興亜細亜を談じ血涙を絞った聖地である」と教えられ、歌詞のガリ版が配られ、歌集指導を受け剛毅で成る拓大の校風の洗礼を受けました。

まず校歌、次いで逍遥歌、相撲部応援歌の興亜の雄図キット勝チマス勝タセマスの乱舞、シャンコシャンコテツテツの乱動1時間、恰好の着いたところで大声を張り上げ池を廻りながら歌い踊り続け、拓大の伝統と愛校心を入学初日に新入生は植え付けられることになります。

しかし、昭和16年11月日米開戦を前に全学応援団は学校の指示で解団となり学39期応援団長佐野篤四郎先輩より解団の主旨が貼り出され、解団式は恩賜記念講堂で行われました。解団の経緯の説明、反対の発言等大荒れに荒れたが、佐野団長の声涙こもる熱弁に一同承服し事なきを得、不詳を未然に防いだようです。

式後校庭の招魂社に一同詣で次いで応援団幹部、リーダーを始めとした在校生大挙参加し、愈々大集団による歌と踊りの始まるとき、佐野団長より大声一番檄が飛ばされた。この檄「序文」は歴代の応援団長により現在まで語り継がれています。

「草木すら時に悲歌を嘆ず、嗚呼熱血武侠の紅陵健児などか憂国悲憤の歌なしとせん。染まりては散る紅葉の下陰、美酒酌みては五丈原に嘯きし先人 其れその憂国武侠の魂は迸りて此の歌となる。 移ろい行きし星霜と共に人亦去りて 今此処 興亜思想揺藍の地 紅葉ヶ丘に籠れる健児二千 時に国を憂い亜細亜を思わば 紅陵の盟友よ風に嘯け 摩天林の下 雲に雄叫べ 麗澤湖の畔り 而して掬むべし 掬まん哉 先人が血潮の雄叫びを!」

「押忍!押忍!」と力いっぱい勝チマス踊りを続ける中で諸々の思いの涙が止まらなかったと書いておられます。その後、学部39期、専門部15期の先輩諸氏は繰り上げ卒業で陸海軍へ召集され戦場に行かれました。この戦争で数多くの戦没者となった卒業生は再び此の校庭に相まみえずこの解団式が送別の宴となってしまいました。時あたかも12月8日の日米開戦の風雲を孕む1ヶ月前でした。

     

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2.創生期(40・50期代)

昭和23年(当時は紅陵大学)新たに学内の中核として応援団推進部を新設し、拓大相撲部から角界入りした吉井山の場所ごとの国技館での応援や、福井大震災(昭和23年6月28日PM5時)では、この推進部が中心となり学生自治会と共に「義援隊」を立ち上げ、30数名の「紅陵大学義援隊」として現地で救援活動をし、福井市長から感謝状を頂きました。学園はまだ戦災の痛手から癒えず、恩賜講堂は爆破されたままの残骸を晒し、校舎の破れた窓からは寒風が吹きこむという現在では想像できない学園風景でした。

<エピソード2 学部46期冨岡豪一先輩>

応援団を指導された初代の部長伊東敬先生が最初に取り組んだのは団員の意識改革でした。先生は旗振りだけじゃダメと言うことで、教養と知識を身につけることを指導して下さった。「人前で自由に自分の意見を発表できるように」と昭和23年の夏休みを利用して全国各地を戦後復興をテーマに遊説をしてまわることになり、青森から長崎、鹿児島種子島までやり遂げ、伊東先生指導の下、全員無我夢中で懸命に突き進んだ体験は大変勉強になりました。

<エピソード3 学部49期宍戸政栄先輩>

拓大に現在のような組織的応援団が出来たのは昭和23年、戦後の混乱期に何ものかを求めて集まった青年達、当時の校名は紅陵大学。当時の体育会は柔道、剣道、空手の運動部は認められ、相撲、レスリング、フェンシング等も盛んでした。また当時の応援団は単なる旗振りではなく勉学にも務め毎週金曜日の夜は上北沢の今立哲雄氏宅に集まり岡倉天心の東洋思想や浅野晃のインド論等を研究した。また、部長の伊東先生と共に青森から種子島まで遊説を行い若い青春の血を燃やしたものである。

<エピソード4 学部55期降矢 孜先輩>

昭和30年当時、応援団は全学応援団であり、団員は幹部、一般学生は団員であった。新学期を迎え春のリーグ戦開始前に各体育部の壮行会が行われた。東日本相撲選手権では同期の布目君が優勝した。またこの年から各大学応援団の演舞公開、賞もあり、1位中大、2位拓大、3位日大であった。全日本学生相撲選手権大会では演舞で拓大1位であった。11月ごろ中大、拓大、日大の団長3人が当時のNHK「私は誰でしょう」(昭和31年)番組に出演し、司会に高橋圭三、回答者に藤原光、扇千景さんに2問目で応援団長と当てられた懐かしい思い出です。

<エピソード5 学部57期米林 弘先輩>

昭和30年の拓大は総長に矢部貞治博士、理事長に西郷隆秀先生を迎え戦後から新しい時代へと向かい始めた時期だった。応援団での初仕事は東映の「飛燕空手打ち」と言う映画の撮影だった。五丈原に櫓が建てられ、その上で降矢団長が声高らかに序文を切るとファイアーストームの炎に照らされた全学生の士気も高まり「勝ちます踊り」の輪が幾重にも広がり500人近い学生が「キット勝ちます勝たせます」と踊る様は壮観であった。その時頂いた和太鼓は永く応援団と共に歴史を刻むことになる。リーダー練習は毎日昼休み屋上で2年生から指導を受けたが愛のムチやしごかれたことはなかった。6月には東日本学生相撲大会が蔵前国技館で行われた。応援団長は白い羽織に袴、副団長は黒い羽織に袴、我々リーダーは絣の着物に袴という出で立ちで国技館に乗り込んだ。寮生も幟を立て参加したので100名以上の大応援団になり、太鼓を打ち、勝ちます踊りや押忍三唱で館内を揺るがして応援した結果、見事個人戦で学3の布目君が優勝したので蔵前から茗荷谷まで行進することになり100名以上の全学応援団が逍遥歌や蒙古放浪歌を歌いながら延々と学校まで歩いたことは太鼓や団旗の重さと共に忘れられない感激の思い出である。

3.躍動の時代(60期代)

昭和35年(1960年)安保反対の動きが活発で日ごとに安保闘争の激しさが増すに従い、当校の学生もデモに参加する動きが出始め放置できず学生集会を開き当校学生は安保に反対すべきではないとの結論を出しました。この時代相撲部は全タイトルを取り応援団はコンクールで優勝するなど第2期黄金期だった。団員も100人を超え総務局応援団として大学経営の一躍を担う立場でした。60期も後半になると研ぎ澄まされた指導、応援団生活になりそれが先輩・後輩の間に余裕がなくなり、70年安保闘争にも拓大は巻き込まれなかったが世情の殺伐とした影響があったようです。

<エピソード7 学部59期 品竹英夫先輩>

昭和32年頃の応援団の寮は青葉寮といって西武新宿線花小金井駅前の拓大一高の敷地内にあり、空手、柔道、剣道、ボクシング、陸上部等と一緒で応援団は4部屋を使って一番大人数であった。

1年生の起床は6時、廊下、便所等を分担で掃除し、自分の部屋の掃除を済ませ先輩たちの起床に備え、井戸のポンプ係と配膳係に分かれ食事とお茶の支度を整えます。朝食は7時からで団長以下全員そろうと、食事が始まり食後当日の予定及び注意事項の話があり、食後の食器を流し場へ片付けてテーブル、椅子を整えたら1年生の朝の仕事が終わります。朝食後は洗濯その他、学校へ行くもの等自由だった。練習は毎日正午から本館屋上で行われ当初は体力づくりが主でうさぎ跳び屋上2周、腕立て伏せ100回、シャンコテツ100回、その他に発声練習、和服応援の為の小旗振りと運動部並みの練習量でした。夕食後は8時から歌集指導と正座が夏休みまでの日課でした。

青葉寮は拓大一高校舎増設の為閉鎖となり、それぞれ下宿等をしていたが応援団員のより一層の団結と人格形成道場として団員が共同生活出来る寮が是非必要とのことで応援団員一丸となって強制アルバイト等で資金を作り江古田に孔明塾を開設した。寮の名称はその昔、中国の三国時代に蜀の名軍師、諸葛孔明に因んで付けたとのこと。

<エピソード8 学部61期 水野哲紀先輩>

昭和35年頃から羽織はかまで小旗を振っての大声と太鼓の応援から学生服に統一し新しい応援方法を確立して行った。昭和37年には応援団最大の100名規模となり東日本相撲大会3連覇、全日本学生選手権でも優勝し拓大の名を全国に広め、また東日本応援コンクールでも優勝したのをきっかけにNHKテレビの「それは私です」テレビ朝日の「私はNO.1」に出演し全国に拓大と拓大応援団の名を全国に広めた。昭和40年頃、新応援歌「我らが拓大」「気合い拍子」「キンキラ節」が誕生した。

<エピソード9 学部62期 渡邉龍治先輩>

昭和35年の団長は品竹英夫先輩でした。新入生の学一には学四の幹部先輩の存在感は表現できないほど大きく感じたものだ。学一になって大菩薩峠への徹夜行脚は深夜塩山駅を発し和太鼓を打ちならし歌集を放歌高吟し、山頂の山小屋を目指しひたすら行脚し山頂に至る。踏破の後月明かりの山頂で深夜の演舞、品竹団長の訓示を得、一泊の後翌朝多摩湖目指し下山した。足はマメが痛く疲労困憊するも、成し遂げることへの心地よい興奮と英気が心身を癒した。

昭和37年の団長は水野哲紀先輩です。水野団長は斬新な改革を多々試み組織向上を図られた。一つは学内で応援団の影響力の大なるを考え学生自治会に応援団員を学年ごとに委員として毎年送り込み応援団の存在を不動のものにしたことは言うまでもない。夏合宿は涼しい信州白馬で行われ心和む思い出の合宿であった。合宿の成果と水野団長の指導宜しきを得、東日本学生相撲応援コンクールに優勝し団員一同大いに感激し一層士気が高揚したものである。此の優勝により水野団長が「それは私です」というNHKテレビ番組に出演されて我が拓殖大学のPRに多大なる貢献をされました。38年度幹部の選出に於いて62期団長を仰せつかり身の引き締まる思いに覚悟を新たにしたことを思い出します。またこの年は復活した空手部が全日本学生選手権優勝、相撲部も全国学生選手権に優勝するという快挙を成し遂げ、またNHK にテレビ出演し拓大を一層PRできたものと思う。

         

孔明塾では朝食を食べる前に必ず誓いの言葉「押忍五省」を唱和しました。これは、戦前、江田島の海軍兵学校で毎日消灯前に唱和されていたものです。

一、至誠に悖る無かりしか。

一、言行に愧じる無かりしか。

一、努力に憾み無かりしか。

一、不精に亘る無かりしか。

一、気力に欠くる無かりしか。

今でも、五条訓として紅会による演舞公開の前には、必ず全員で唱和しています。

<エピソード10 学部64期小池信一郎先輩>

在学したのは昭和37年から41年で、この4年間は比較的平穏であった。35年に勃発した安保闘争も終息し、大学や学生を取り巻く環境は物情騒然とした世相の狭間の世代であったと思われる。体育局各部の活動は活発で、特に空手、相撲、柔道、剣道の武道系が強く東日本、全日本をはじめ各選手権大会で優勝、上位入賞で常勝拓大の名を天下に知ら示していた。この時期応援団でも更に選手や学生も鼓舞しようと話し合い思案の末、新たに応援歌と二つの演舞が考案された。応援歌は「我らが拓大」である。同期のリーダー部長である佐々野一郎拓兄が作詞と振りを手掛け作曲は自衛隊東部方面音楽隊隊長の緒方太助氏により完成した。演舞の一つは「気合い拍子」である。応援団部長であり日本空手協会主席師範中山正敏先生のご指導を得て完成した。演舞のもう一つは「拓大キンキラ節」の舞いである。これは剣道部の小山長英先生に居合いを取り入れた振り付けにより完成した。この新リーダー演舞が完成に至る背景には副団長であった故浅野貴義拓兄の功績が大きい。新演舞は連日猛練習を重ねたのちに茗荷谷ホールにおいて学生、職員、教授方で満員の前で吹奏楽部の演奏と共に2時間に亘りリーダー公開を行い大喝采を浴びた。

茗荷谷と八王子(70期代)

拓大は70年安保闘争には巻き込まれなかったが、混迷時代の影響が底流にあったのだろうが、応援団の団員が集まらず「バンカラから暴力的になっていった」殺伐とした社会の混乱が修正されずに時代の流れを作って行った。

昭和45年頃から団員がどんどん減って団運営が難しくなってきて応援団を辞めたものが親衛隊を組織し応援団はリーダー部のような形になっていった。72期の時廃部になりました。理由は春の新入生教育合宿が終わった後、退団するものが出て来てヤキを入れたことによるが、殴って顔が腫れあがり、医者の診断書も1週間の加療だったが、その団員の親が中曽根総長の後援会の人で総長の秘書だった拓大OBが頑強に廃部を主張した。また読売新聞社が大々的にスクープ記事として掲載された。団旗は大学に没収され、国際経済学の教授が顧問になってくれたことで国際産業経済研究会という名で応援活動をしていました。また、同時に応援団設立委員会をつくり復帰運動をし、学生大会で承認して頂いた。74期の代で復団したが、8名の応援団でした。団員不足で(ほとんど海外移住研)、吟詠部、亜細亜研究会から応援を頼み国技館の応援コンクールで優勝しました。紅陵祭の時は茗荷谷ホールで中大、農大との三校合同リーダー公開をしました。更に昭和51年関西大学主催で大阪遠征演舞公開をしました。
76期の代では、八王子校舎に1・2年が移転しリーダー公開は八王子キャンパスでやることになりました。八王子での練習は茗荷谷から3年が出向いて指導することになりました。NHK教育テレビで「若人のひろば」という番組で応援団の特集をやり早稲田、上智、農大、拓大と4校が出演し拓大の応援団も再び有名になりました。また、第三応援歌昭和50年作成「進め拓大」慶応医学部教授納丸氏作詞 (関井団長時代知り合う)。昭和51年には花の応援団{二代目団長青田赤道はOB}が映画化ブームとなる)解散後 歌集愛好会~支援会と細々と応援団演舞を伝承してきた。

 

<外伝>

歴代部長

伊東敬先生の後の担当部長は豊田悌助先生(昭和30年後の13代総長)になり応援団OB会を「紅会」と命名、その後中山先生(昭和33年)になる。

演舞は何時頃できたか

・勝チマス踊り・・・戦前、大正13年頃

・シャンコテツ・・・戦前

・押忍三唱・・・戦前 後半の空手の型は昭和36年60期後藤常雄氏時代中山先生の指導の下に出来た。

・紅陵歌(ノーエ節)・・・昭和28年(52期星野氏時代)池袋の踊りのお師匠さんを呼び、屋上で指導を受ける。稽古時はお師匠さんのきれいな踊り方が無骨な団員がやると上手くいかず随分修正された。

・ブラスバンドの本格的な創設・・・昭和30年(54期村上氏時代)

・拓大どんたく・・・昭和31年(55期降矢氏時代) 九州の博多どんたくから取り入れたと思われる。

50期頃から団員による組織的な統制された応援方法に変わって行った。応援コンクールでは59・60・61期と三連覇となる。

孔明塾は何時できたか

昭和34年2月設立・・・(58期山本氏時代)住友の社員寮であった。団員各人がアルバイト等で資金作りをする。孔明塾の命名は米林氏。

 

徹夜行脚

毎年6月には応援団恒例の徹夜行脚で熱海の宮の松から強羅まで懐中電灯を頼りに暗闇の中を歩き得るものが多かった。先輩同輩の気心が知れ、思い遣りの精神、団体行動での助け合い、一致協力などその後の応援活動には欠かせない精神を養うとともに全員で成し遂げる達成感も味わうことができた。

応援団のルーツ

「他人の楽しみを己の楽しみとし他人の悲しみを己の悲しみとする」

「君は川流を汲み我は薪を拾わむ」いわゆる「思いやりと共同愛の精神」であり言いかえれば正義に対する適切な配慮を含んでの博愛と礼節と言うことになる。そしてその行動とするものは、「武士道」の中で「武士道は己を滅し無報酬、無償であるところに価値があると信じていた」とあるが、まさしくそのものでありボランティアにこそ価値があるとする集団ということになる。応援団発祥の原点であり、まさに矢部総長の教学の原則「地の塩となれ」こそ押忍の精神である。応援団生活とはそれを養う道場である。また応援団員は忍に徹しなければならない。運動部選手を激励し力づけ、全学生の喜びを己の喜びとし、その悲しみをともに泣く。全く縁の下の力持ちに他ならない。押忍の根底にある忍に耐える心と体を鍛錬することが必要である。社会に出て応援団で苦労した卒業生諸氏が実行力もあり誠実寛容な人柄を買われて評判が良いのは忍に鍛えられたからである。

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