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応援団OB回想記

65期 風間 昭先輩 回想記

昭和18年    台湾屏風東市に生まれる  
昭和30年    古市小学校卒業
昭和34年    今市中学校卒業
同年        浪商高校入学
昭和37年    浪商高校卒業
昭和38年      拓殖大学商学部貿易学科入学
昭和42年        〃         卒業 
昭和42年6月  「轟皮」西洋料理ステーキ店創業
昭和53年8月   株式会社「芭爾札克」設立 代表取締役社長就任
昭和53年10月  銀座博品館「芭爾札克」創業
昭和59年10月  株式会社「芭爾札克」設立 代表取締役社長就任
昭和59年11月  築地ステーキ「哥利欧」創業 
昭和60年1月   株式会社カザマ設立 代表取締役就任
平成2年10月   全社の役職を退任

団体所属
・ライオンズクラブ国際協会東京新橋ライオンズクラブ
・社団法人 日本青年会議所シニア
・社団法人 東京青年会議所シニア




 

六十五期 商学部貿易学科卒 風間 昭

昭和期のひとこま拓大の資料の参考にと、同期の福田拓兄にいわれ、それならばと体験した事柄を、記憶を呼び起こして単的に記録的にとどめて書いてみました。記憶違い等あるやもしれませんがご容赦願います。
昭和38年浪商高等学校校長推薦にて試験を受け入学、父と二人上京し、拓大校内に行き、学内各部のPRの中、ボストンバッグひとつ、その日の宿も決めてないので、寮があり、高校時代経験した野球部、應援団の三社選択で、全国的に有名であると聞き、應援団を選択、単身にて渡辺団長率いる団室へ勇躍申込み、即日、孔明塾へ入塾、四年間の塾生活が始まった。
当番の起床の掛け声のもとランニング及びトレーニングを行い、掃除し、朝食をいただくが、一週間から十曰くらいは箸が動かなかったのを覚えている。

新入生歓迎会が狭山湖で行われ、行き帰り隊列を組み、狭山湖では、酒を飲み、歌集を高吟し、歌い踊るの乱舞であつたが、統制されたもので、しっかり先輩たちは管理していて一般に迷惑をかけることはなかった様である。
拓大の学生さんはと暖かい日で見ていただいていたように思う。高校生から大人(社会人としての)大学生への洗礼、玄関口であつたかと思う。しかし小生はグロッキー、泥酔の為、丸一日、気を失い寝ていた。ていたらくであった。
雲取山徹夜行脚、真夜中、一睡もせず隊列を組み、暗夜の行進、歌集を高吟し眠気をさまし、叱咤激励され、山頂に辿り着いての朝明けの雲海は素晴らしい光景であった。この行程は団員に逐一、気を配り、前後入れ替えたり、ロープで繋いだり、点呼を繰り返し、名を呼んだり、気合を入れたり、歌いながらの行進は、先輩達の用意周到な準備と気遣いは大変であったろうと思
われる。上級生になり、経験することで解つたことではあるが、統率力の裏付けによる徹夜行脚は恐怖心から脱皮、いたわり、 個と団体の意志の醸成がなされたのではないだろうか。

孔明塾新入生脱走は当時應援団には吹奏楽部が組み込まれていて、孔明塾入団の部員は、同じ鍛錬を受けていた。団員と吹奏楽部員とは質が異なると新入生団員は思つていたので吹奏楽部員が脱寮するとの話を聞き、思いとどまるよう説得したが意志固く、それなら新入生全員で脱走しようと計画、早朝密かに一人一人寮を抜けだしたが、最後の小生が真柄先輩※1に「風間君、脱走して解決するのか」と声を掛けられ、足が止まり、学究肌の先輩に諭され、寮に戻り、一人、二年生と相対し應援団、吹奏楽部のこと等、直談判した結果、一部同期は去り、残りはお構いなしで、寮に戻つた。宮原先輩※2始め、怖い先輩が冷静に話を聞いてくれたのが印象に残つている。この事件を期に應援団より独立、今日の吹奏楽部の基であり発展しているのを見ると感無量である。

アメリカ大使夫妻学校訪問ライシャワー大使御夫妻が来校され、應援団の先輩達が護衛を務め、学内見学、應援団五丈原にて演舞披露、夫妻始め総長、理事長、学生諸君に拍手喝采を浴びたのだが、緊張は限度を超えたのを覚えている。誉れを感じながらでもあるが。

※1真柄螢一 学部64期 学友会現北陸連合会長
※2宮原達忠 学部64期

学生運動のあおり当校にも大学騒動起こる。確か教室、教師の不足、休講多く学費、大学経理、八王子問題等の問題で学校当局との話し合いがつかず、学生大会で、総長、理事長を糾弾しよう、出席し説明せぬなら学校封鎖、ロックアウトも、の雰囲気、危機が高まる、露田学生自治会委員長3のもと対応(委員長実姉事故の為不在になる)宇佐美※4、大沢5拓兄、町田6、阿部7両先輩と五丈原で話し合い、マスコミの的にならぬこと、他大学の活動家の潜入を許さないことを確認、意志統一をした。その上で文化連合会、体育連合会、各寮の責任者と話し合いの場作りを應援団の立場で一役買い、場を作り同席した。小生は自治会役員と應援団と二足のわらじの身であつたが……。その時母校を思う気持が皆同じで強くあり、全ての学友が異口同音に学校に解決を求めるが、マスコミに母校をさらしてはいけない、他大学の学生活動家を潜入させてはならないとの意見の一致を見て、その考え方を基に大学当局と交渉、学校封鎖か学生大会に総長、理事長出席して、学生と融和して解決の道をとるか迫り、学生大会に出席し、説明をすることになり、回避することになつた。未然に騒動を防ぐことができたのは、学生自治が成された事実である。市古学生部長、藤渡学生主事の時代である。

謝恩会と提灯行列の復活は、卒業謝恩会は永い間、行われておらず復活しようということで六十五期卒業を主体に実行委員会を設立立案実行する、幾多の困難を乗り越え、謝恩会は椿山荘で開催され、卒業生に花を添えた。提灯行列は、紅陵祭実行委員会のもと、学生自治会、暁風寮、恒心寮、学生会館の各寮、各部の統率責任の上、應援団の指揮のもと、紅陵健児の雄叫びとカチマス踊りのあと五丈原から出発した行列は整然と行われ、附近の住民からも懐かしいとの声と拍手を浴びた。なお、両行事とも一部学生の不穏な動きがあつた為、大塚署に依頼、警備をそれとなくしていただいたが、無事終わり、警察からもさすが
拓大と感心され、心の荷が降りたのを今日も思い起こすことができる。

※3鶴田俊博 64期 現学友会副会長
※4宇佐美凱義 65期
※5大沢潤逸 65期
※6町田猛 64期 学友会鹿児島県支部 町田和子さんのご主人
※7阿部茂 64期 町田氏がEFL懇

紅陵祭演劇部門出演
学二の時、孔明塾では永田塾長初め、後藤※8、上野※9、新保※10、真柄と文武両道に長け、学問肌の先輩が多く、在籍していたので多士済々の人物がいて、シナリオから小道具等々あらゆる準備を行い、配役を決め連日の稽古で演技指導の上、
「シラノ・ド・ベルデュラク」を紅陵祭で演じ、喝采を浴びた。常に最善を尽くす努力はとても厳しく辛いものではあったが、楽しさも有り、後で振り返るとつい微笑が戻つて、当時を想い出されるのはうれし い。

 学生横綱誕生

予想外な誕生であった。大阪で行われた大会で六十五期の三本君※11は四年最後の大会、大将として出場、個人の部でノーマークの選手、小柄、軽業師のように勝ち進み、あれよあれよと誰が思う中、大本命の相手を軽妙な動きで土俵際、相手が勝ったと思つた途端、相手が土俵の外、一瞬会場が静かに、大本命を倒しての優勝、四年生として共に喜びを分かち合った。

※8後藤峰員 63期
※9上野文夫 63期
※10新保勝栄 63期
※11三木功 65期 29年振り5人目の学生横綱

全日本学生應援団連盟演武は常に演武では良い成績を収めていたが、団長として第十四回本部記念祭リーダー公開での演武は思い出深いものであつた。遠征演武公開は岡山県津山市へ遠征、公民館ホールで一般市民へのリーダー公開は、津山出身の市団員及び先輩の尽力によるものであったが大好評で終わつた。感謝してもしきれない感動があった。
テレビ出演はテレビ局より出演依頼があり、PRできるチャンスと受け、三波伸介師匠司会の番組で朝からリハーサル、一日を要したものであったが、リハーサルと打ち合わせと違う、本番の三波伸介師匠のアドリブに大いに戸惑つたものである。演武は全国に流れ、拓大そのもののPRと應援団の名を広められたと自負したものである。後々、兄弟や知人友人知己より電話等で
そのテレビを見た話をされ、より感じたものである。今、想えば当時、小生が学一の時の学四までの先輩達、村上※12、野上※13、恒見※14、新保、後藤、上野、真柄先輩等々は学問肌の知的な方々がおられ、“バンカラ”といわれるわりに常に應援団の前に学生であれ、学生の本分は学ぶこと、文化部等にも入り“学業を優先せよ“と諭されたことを思い起こされる。

教職課程を取つておられた先輩が多くおられたことは、後で知ったことであらた。実のところそれとは関係なく、高校卒業時に高校の恩師から大学に行くなら是非とも教職課程を取りなさいとアドバイスされていたので、小生も教職課程を取り、教員免許を修得したのである。押忍と飛び交つたあの時代、葉隠武士道の押忍の精神は、深く研究、知っている訳ではないが、自分なりにこう考えている。押忍の精神は難難辛苦、耐え忍んで、その後、目的を達成する真の目的の為には、何事にも耐え、我慢すること。それは應援団員にとっては、人の為、世の為、学校、母校の為に命をかけて尽くすことができるよう、日毎より、厳しい、苦しい、心身を鍛錬し続けることが大切であると押忍|は教えていたのではなかろうか。文武両道に長ける努力をする拓大生こそ、清々しい拓大バンカラであろうか。
残念ながら、はきちがえた為、尊い人の命を奪うことになり、應援団にあるまじきこと永久廃部となったことは痛恨の極みである。しかし、拓大應援団の精神は今日の現役学生の諸君には知って貰いたいし、押忍を発しなくとも肝に命じて、学生生活を有意義に新生拓殖大学生として、学生生活を謳歌されることを望んでおきたいと思います。私は米国で高校、カレッジと過ごした我娘がいますが、ロスアンゼルスに在住十四年、息子四人を育てています。全員市民権を今年取得したのを機に私達夫婦も一念発起、グリーンカードを取得して、ロスアンゼルスヘ移住することになり、拓殖大学の建学の精神、海外雄飛を夢と思つて卒業約四十五年にして、計らずも果たすことになりました。これも因縁で第二の人生へのチャレンジです。

学生健保生まれる。
この時代(昭和三十八年四月~昭和四十二年二月在学中は)学生運動が激しく、各大学で大学紛争や学生の政治闘争が起こり、公安当局を悩ませ、しばしば警察当局ともぶつかり、一方過激派の行動は後の浅間山荘事件に発展したのだが、拓大も何がしかの問題があり、学生と学校との関係で不信感が生まれ、大学紛争になる状況化もあつた。それが避けられたことは前に述ベ
た如くであつた。しかし、その様な時代背景のもと、大学紛争による怪我、死亡又、運動部、寮、学生同士の喧嘩等、行き過ぎた鍛錬、履き違いによる事故の死亡等多く、それに対する費用等の手当無く、為す術もない時代であつた。その当時、学生健保組合は関東、関西、全国に於いても数校しかなかつたけれど、拓大に於いて学生の為の学生による学生健康組合を創り運営することを画策したのは、画期的と言える事柄であつたように思う。設立する為に、実施校から資料を収集し。分析、検討、立案し実施するために問題点は何か?結局、組合費の額と徴収、給付、経理及び管理運営をどうするかにあつた。自治会で他の部、寮等、学生からどのようなものがあれば良いか、学生が必要とすること等、情報収集をすると共に各大学の実施情報、内容を検討の上、拓大健保組合費を決め、立案した。立案を基に学校と交渉し組合費徴収については学費納入時に同時に学校側に徴収して貰い、学生健康保険組合規定に従い給付を含めた組合費の管理を学校に委託することに成功。学生在学中にスタート実施されたことは、この時代には学生の力で成し遂げた学生自治があつたことの証でもあつたであろうか。設定した程、数年以上に互り給付が無く将来の資金プールにつながり、現在の学生健保組合に発展して現存していることは極めて希なことであり、嬉しい事実である。先輩諸氏の先を見た達観した考えのもと、小生も自治会の同期、宇佐美、大沢拓兄と共にできたことは、大変嬉しいことであつたと振り返り、四十五年後の今も想い出される。

 ※12村上紀男 62期
※13野上俊明 62期
※14恒見重夫 62期